J.M.クッツェー『マイケル・K』

10年ぶりに『マイケル・K』を再読した。心底感動した。

年老いて病気になった母親を、ケープタウンから、彼女の故郷である内陸の農場へ連れていくため、荷車に乗せて押してゆく。奇妙な子連れ狼のようなロードムービー的シーン。

母親は家政婦として長く苦役に従事してきたが、老いた病身で用払いされている。息子のマイケルのほうは、口唇裂という容貌に加え、知能にも多少問題があるようで、労働に従事するほかに社会との交流は薄い。30歳を過ぎているが、「大人」という感じでもない。(作中言及はないが)アパルトヘイト末期の動揺する社会で、(やはり作中に肌の色の記述はないが)有色人種であり、底辺に取り残された母子である。

居住地から出る為には当局の許可書が必要だが、許可書はなかなか発行されず、プロセスは遅延していく。Kという人物名もさることながら、官僚的組織のこうした描写はカフカ的なものだ。

紆余曲折あり、マイケルは農場での単独生活を開始する。他者から見つからないように、洞穴に身を忍ばせ、カボチャやメロンの種子を植える。ロビンソン・クルーソーのような退嬰的自給自足の生活を開始する。

孤島でないマイケルの生は、他者からの暴力的介入に侵され、安閑としない。熱病になり食欲は減退、極限まで衰弱するが、他者から施されても、自分の食物でないものは受けつけない。農場から引き剥がされ、キャンプへ収容されても都度脱走。自由、独立、大地との結びつきを求める。

クッツェーのその後の長いキャリアを今振り返ると、初期の作品と言えそうだ。原著刊行は1983年。最初の作品刊行『ダスクランド』の1974年からは9年後になる。なお二度目のブッカー賞を受けた『恥辱』が1999年。

さばさばと砂のように乾いた印象のある近年の作品とは、文の印象が違う。湿り気、といってもべたべたと情念的なわけではないのだが、山肌にしみ出した湧き水のような清冽な印象がある。

マイケル・Kには、『響きと怒り』のベンジーほどではないが、知的障害と言えるような面がある。だが彼は、思い、考える人である。彼はしばしば、内的な思考や独白のなかで、自らのことを省みる。自分はどうしたいのか、どう生きるのか、何を食べるのか、時間とはどのようなものか。

浮かび上がってくる彼の思念は、言語的にくっきり明確に分析されたものではない。だが作家の繊細な筆先が、彼の思念を拾い上げ、読者に届ける。私たちはその思念に触れて、自由の意志が動いているのを感じる。人間の生の根源的な部分に、触れているように思う。

マイケル・K (岩波文庫)

マイケル・K (岩波文庫)