リャマサーレス『黄色い雨』

フリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』が河出から文庫で出た。10年ほど前にヴィレッジブックスから出た単行本からは、短編が2つ増えている。表題作は、詩情豊かな叙述が美しく、訳書の単行本刊行時から評判だったように記憶する。国際的にもこの作品の評判はたいへん高いと聞く。

スペインのピレネーの山中、過疎が極端に進んだ限界集落が話の舞台である。崩壊の半歩手前。話といっても話らしい話はない。他人に馴染めない偏屈な老人が、妻に愛想尽かされ先立たれ、息子に見捨てられ、限界集落に猟銃をもって立て籠もり、朽ち果てるように死んでいく、ロクでもない話である。

村人たちは次々に家を捨て離村してゆくが、自分は一匹の雌犬とともに集落に立てこもるように残る。恐れるように他者から距離をとり、銃をもって村への侵入を拒絶し、自給自足的に生きていく。老人の退嬰的な姿は、ラプラタ川河口の島に砦を築き籠ったロビンソン・クルーソーを思わせる。漂流して島に着かずとも、元いた場所でも他者が離れて消えれば、そこは孤島である。

特徴的なモチーフとして、ロープの扱いがある。妻は自死するのであるが、彼女がそれに使った一本のロープを、老人は怯えるように遠ざける。彼が投げやったロープは、雪に埋もれ見えなくなるが、雪解けとともに、彼のところへ戻ってくるように姿を現す。老人はとうとう、妻の命を奪ったもの、妻が最後に身に付けていたものであるこのロープを、ベルトのように常に腰に巻くようになる。死や生や、あるいは妻の喩のようなこのロープは一体何なのだろうか。

はっきりした順序もなければ、先の希望もなく、家がほかのすべての家を道連れにしながら少しずつ倒壊してゆくだろう。苔と孤独の重みに耐えきれずにゆっくりと、ひどくゆっくりと崩れてゆく家もある。かと思えば、狙った獲物をのがさない冷酷の猟師の銃弾に撃たれた獣のように、一気にどっと倒れる家もあるだろう。しかし遅かれ早かれ、時間の長短はあっても、すべての家は大地のものであったものを大地に返すだろう。アイニェーリェ村の最初の住人が大地から奪い取ったもの、それを大地が返却するように求めているが、結局それを返すことになるだろう。

こうした自然によるレコンキスタは、今日に至るまで日本の近代でも起こってきた。先日、四国の仁淀川中流域のある町史を読んだ。中世の開拓者の記述があった。木を倒し岩をどけ、土地を開き水を引いて、農業生産の基盤をこしらえた英雄の記録が残る。人間たちは、谷伝いに山の隅々へ勢力の前線を押し進めていった。この前線が自然によって押し戻されている。人間たちは町へ押し込まれてゆき、田畑は森へ還っていく。

付録の短編二作は、鉱山業の衰退にともない廃線に決まった鉄道で、失職したのにしつこく勝手に踏切番の仕事を続け、汽車が通るはずもないのに道を封鎖する男の話と、住む村をモデルに小説を書いたものの、モデルにされた人々から糾弾されることを恐れて、作品を公にできない詩人が、強迫観念のあまり凶行に及ぶ話。特に前者は悲哀のユーモアが漂うが、人物が元気なので暗くはない。

この作品による読書会に参加したとき、出席者のある女性が、「付録の2短編も含め、近代化から取り残された人々を描いている」と発言し、なるほどと思った。私たちの社会では、時として、不作為は罪と見なされる。世の中が変化しているのだから、それに対応していかなくてはならない、対応できない・しないのは怠慢であると見なされる。しかし本来的に不作為は罪ではない。だが社会はこれを罪としなくてはならない。こうした対処不能な二律に向かうとき、ユーモアやイロニーが必要とされ、芸術が生まれるのかもしれない。

偏屈老人の孤独な生を正当化するわけではない。美化するわけでもない。それでもこの作品の叙述は美しく魅力的だ。きれいでないものを美しく、面白くないものを刺激的に変貌させるのが、芸術の力ではある。ただ、現代の都市に暮らす読者にとっても、そうした生活から離れているのになぜか、土、水、雪といった自然の中の生活描写は、もともと魅力的なものとして届きやすい質のものである。まして、崩壊の美学という味付けまである。逆に、コンクリートジャングルに暮らす、大組織の事務労働者の平凡で退屈で明日以降も続く生を、美しく刺激的に描くこと、ホワイトカラーのための詩学の困難さを思い、苦笑いしたりして。

黄色い雨 (河出文庫)

黄色い雨 (河出文庫)