ウィリアム・メルヴィン・ケリー『あいつら』

一種の双子もの小説ということになるかと思う。ただ双子の要素は少なめで、人種差別を引き起こすアイデンティティーやリアリティーの崩壊不安が主題になっているように思う。ディックなどを想起する人もいるかも。かなり読みどころの多く、面白い。

ちょっと性的にダラシない白人中産階級の夫婦、ミッチェルとタム。ニューヨークに住む。タムは妊娠するのだが、子供が生まれると双子であった。一方は白い肌、もう一方は黒い肌。ミッチェルとタムの家系には黒人の血は混ざっていない。とすると、多胎妊娠ではないかというのが医師の所見である。多胎妊娠とは、ごく近い時期に複数の卵子に複数の精子が結びつき妊娠する事象である。つまり、妻タムは、ミッチェルと性交したのと同じ時期に、だれか黒人とも性交したことだ。人種間の姦通、ミッチェルにしてみれば不名誉ということになる。

肌の黒い子供を我が子として公然と育てるわけにはいかない。それは妻の黒人との姦通を人に示すことになる。せめて白人とヤッてくれていれば自分も気づかずに終わっただろうに、と思いながら、黒い肌の嬰児の父親は誰かと問うミッチェルに、タムは、かつて家政婦として雇っていたオパールの知人、クーリィだと言う。ミッチェルは、肌の黒い赤子を引き渡すべく、クーリィを探すため、オパールの甥のケルヴィンの手引きで、ハーレムへ入り込んでいく。

タイトルの「あいつら」は原語ではdemで、黒人の言うthem、黒人の目からみた白人たちの姿を風刺的に描いたものということになるのだろうかとも思ったが、demというのは他者のことだろう。小説の根底には人種差別の問題があるが、この作品はプロテストの文学であるというよりは、そうした人種差別のある社会を構成している白人たちの疎外、不安、欲望といった精神的問題を描き出している。

例えば、ミッチェルが家政婦のオパールを解雇するくだりがある。ミッチェルがオパールを解雇したのは、オパールがミッチェルの家から盗みを働いたからである。そうミッチェルは主張する。しかし実際にはミッチェルは、オパールが盗みを働く姿を見てもいないし、ミッチェルのカバンの中から盗まれた品を見つけたわけでもないし、家の中から何かが失くなっている訳でもない。何も失くなっていないが、「あいつら」は黒人だから何かを盗んでいるはずだ、だから俺は解雇する、という理屈である。この認識は完全に病的だが、人種差別を成立させるのはこうした認識のあり方だろう。この手の理屈は黒人に限らずで、「あいつら」は中国人だから我々の気づかぬうちに日本の土地を買い占めて日本を征服しようとしているとか、あるいはユダヤ人の陰謀とか、似たような構造であると思う。そういえば男というのは、不安のあるジェンダーなのかも知れない。我が子が実子であるのか、男には結局分からぬのだし。

白人たちの社会を下から突き上げる不安感や空虚さがあるようだ。

まず、戦争における暴力に浸された白人の姿がある。作品冒頭、極東の戦線(ヴェトナムだろう)から戻った海兵隊員の知人に招かれた家で、ミッチェルとタムの夫妻が発見するのは妻と子の遺体である。その海兵隊員が手を下したのだ。妻の遺体にはおそらく屍姦された痕跡があった。

虚構と現実の交錯には、何が現実で何が非現実かわからない、リアリティーの混濁した社会の姿が見てとれる。脚を怪我して動けなくなり家にしばらく引きこもったミッチェルは、TVで午後のソープオペラを見るようになる。ミッチェルは、そのヒロインのナンシーに惹かれる。ナンシーは夫のグレッグと上手くいっていない。ある日ミッチェルはタクシーに乗っていると、ナンシーが実際に町を歩いているのを目にする。ナンシーのホテルの前のバーで待ち伏せしていたミッチェルは、バーの前でナンシーがグレッグに殴られのを助け、一緒に病院へ行き、彼女と親しくなって肉体関係を結ぶようにもなるのである。

ミッチェルの身に起きたことは、黒人の男たちが奴隷時代に強いられてきた境遇だ、とクーリィは主張する。奴隷時代の黒人男の妻が妊娠する。愛する女房が自分の子を産むことを喜ぶが、妻が出産してみると、その子の父親は自分でなく、白人の主人であった。妻を責めることもできない、なぜなら彼女も奴隷なのだから。数世代を経て、今度は白人であるミッチェルの身に同じことが起きたとして、なぜそれを責められなくてはならないかというのがクーリィの主張である。ミッチェルは、黒人奴隷女を犯したのは数世代前のやつの話で、僕じゃないと思う。個人としてのミッチェルの言い分はわかるが、白人と黒人の区分のある社会構造のなかで生きる白人として完全に無垢とは言い切れまい。

双子が出てくるものの、本作の双子は嬰児でもあり、双子らしい働きはしない。別に双子ではなく、肌の黒い子供だけでも話の筋には影響がないように思われる。ただ、白黒の二児が生まれることで、白人と黒人という二つの社会があることが象徴的に表現されている。

あいつら (1971年) (現代の世界文学)

あいつら (1971年) (現代の世界文学)